感覚と事実と隔たり

高いところから落ちるのはスッと身を預けるだけで良いけれど、低いところから上がるには力も時間も要する。物事の法則というのはとても良く出来ているな。と思ったりもするけど、きっとそういう法則から言葉が出来ていったはずなので、高いという言葉の意味は、高い位置にある様の色々な例えによって形成されていったんだななんて思っても、そんな事を感じる事はあんまり意味がなくて、昨日のパーティは楽しかったなと思って、今このシーンとした月曜日の夜、やらなければいけない事を前にもったりとした空気を打開すべくブログを書こうとキーパンチをしてもまた意味はなく、換気扇の回る音が一層心を侘びしくしていくのであります。

昨日のパーティはとても楽しくて、少し調子に乗ってお酒を飲んで色んな人と話をした。そういう気持ちに久しぶりになった。その訳は良いパーティだったこともあるが、自分の感覚の状態に因るところもあったと思う。パーティやライブなど、非日常感覚を楽しむ場所はやはり非日常であるが故、日常が無いとその「非」たる領域に入ることは出来ないのかな、なんて考えたりもする。(仕事は2番目に好きな事、なんていう無責任な言葉もあるが、そういうことかもしれない)確かに日常がないぽっかりとした無職状態を貪っている時はイベント事に繰りだそうだなんて思わなかったし、行ってもうまく人と話せない。話す事もない。今だってそんなにやる事が沢山ある訳ではないけれど、少しだけ労働を任される事になり、生活は相変わらずだけど、その狭間でのパーティだった事が楽しさというか、活発にその場で起きている事にコミットして身を預ける事に成功した要因であると思う。

その法則からいくと積極的に働き、その休みを謳歌すれば万事OKという事になるかとは思うのだが、じゃあお前はうまい水を飲みたいから砂漠を歩くのかというとそういう事ではない。先日闇金ウシジマくんを見た時、闇金のお金を返すために工事現場で働く人が親方から麦茶かなんか貰ってその美味しさに驚くシーンでもその事をすごく思った。

何かの考え方の正当性を調査するときにしがちなのは、過去の経験に加えて、何か媒体を通じて得た誰かの生き方だったりする。はたまたウシジマ君じゃないけど、創作物だったりもする。日常がドラマ化して創作がリアル化する。銀杏BOYZを聴く時、自分が生きたいのは日常であると感じるけど、VICEのドキュメンタリーを見ている時、自分が生きたいのはドラマであるようにも感じる。それは反発の作用にも見えるけど、優れた創作がドラマさえ日常にまで見せてしまっている事でもある。

煙草も辞めたし酒も辞めたらどうなるだろう。なんの楽しみもない人生になるだろうか。それ以外のもっと本質的な楽しみを探すようになるんじゃないか。なんてまた矛盾した考えが頭を重くしていく。

という訳で容姿が聞こえる音を変える。そんな当たり前の事に改めて気付かされた名曲です。


吉田一郎不可触世界 - 暗渠 - YouTube